毒親育ちの解毒中ブログ

毒親育ちがセルフケア目的で始めたブログ。毒親の洗脳、陰謀論、宗教やスピから脱却しました。

このブログにおける某新興宗教へのスタンス

このブログの目的は、セルフケアだ。某新興宗教の教義のおかしさ、信者の思考回路のおかしさを振り返るために宗教被害を綴っている。(無論、信者には当時の私も含まれる。)

 

しかし他の記事でも書いたが、身バレ防止のため教団の教義は一部ニュアンスの近い言葉で置き換えて説明している。

なぜなら私が所属していたのはめちゃくちゃマイナーな新興宗教だから。

教義で使われる言葉も独特で、単語だけで「ああ、あの宗教ね」と特定されかねない。特定の単語で検索するとほぼそこの団体関係者の情報しか見つからないのだ。

そこそこ知名度や歴史のある宗教ならネット検索するとある程度情報が載っているが、ネットに疎い年代の信者が多いのか、はたまた信者の母数が少なすぎるのか。某新興宗教団体の情報は如何せん乏しい。

 

私の身に起きた事実、出来事に基づいて「あれってよく考えたら変じゃない?」と振り返っているが、教団の人間とは金輪際関わりたくない。善意を装ってマインドコントロールしてくるやばい人間の集まりだと認識しているので、もう関わりたくないのだ。

教義のおかしさを指摘しようものなら、寧ろ指摘した側が「あれ? 私のほうがおかしいのか??」と混乱。自己認識を狂わせられた。

そういうやばい人間と接点をもちたくないのだ。

メンタルが健康な人、新興宗教を一切信じていない人にとっては気持ち悪く感じると思う。当時の私も頭がおかしかったし、一般常識とのズレを認識できずにいたので避けられて当然だ。

もし、洗脳されまくっていた昔の自分みたいな人間が近所にいたら全力で逃げる。善意なのか邪な気持ちなのかは分からないが勧誘されるのは嫌だから。迷惑を被る前に離れるのが吉。

 

やたら好戦的な信者も何人かいた。

マウント興味ないです、もう私はそんな次元にいません。宗教で救われてます、みたいな顔をして他人に張り合う信者。恥ずかしいが私にもその傾向はあった。我ながらキモい。

そしてなぜか入信歴の浅い私に張り合ってくる信者がいた。

  • 必要な情報共有をしてくれない
  • 質問をしておいて私の意見(提案)を軽く流す
  • 本題に入らずダラダラ長話をする

本人曰く嫉妬していたそうだ。全然宗教で救われてなくて笑う。

 

ともかく、信者は頭がおかしい率が高いので教団とは距離を置いている。そのため身バレ対策に教義の言葉を一部換えて説明する、というスタンスをとっている。

教団の変な思想は、思い出したらその都度記事にするつもりだ。

神の名の下に「善意」の押し付けを

※身バレ防止のため、教団の教義をできるだけ似たようなニュアンスの言葉で説明しています。マイナーな宗教なので単語をそのまま使うと確実に分かってしまう。

 

新興宗教団体を脱会してから、あれはおかしいことだったなあ……と落ち着いて考えられるようになってきた。

そのひとつが「神がこう伝えている。だからあなたはそれに従うべきだ」という、一見善意に見える押し付けだ。自他境界線が曖昧だった頃、教団の信者にされたし、私も無意識に他の信者にやっていた。

 

神は人間や他の動物のように目に見えない。概念、存在だ。

たとえ神が透明なだけで実在していたとしても、直接私達の脳内に語りかけてくれる訳ではない。なんとなくそう伝えてきているかもしれない、ぐらいの感覚的なものを信者は縁(よすが)にするしかない。

それにも関わらず、「神がこう伝えてきたから」と第三者の名を借り、とても良い教えかのように述べ伝える。なんて傲慢なんだろう。

「神がこう言っている」

「本当は私の考えだが、神が言っていると思いこんでいる」

その違いはどう見分けるのだろうか。

取り分け病んでいる人間、洗脳されている人間に正常に見分けはつくのだろうか。何しろ自他境界線が曖昧なのだ。

 

教団にいた頃の私は洗脳されていたと思う。教義を信じていた。神に従うことを望み、それが良いことだと思わされていた。

教団の幹部信者は、

  • 「どちらでもいい」
  • 「自由にしてください」

と口にしながら、一方で「神に仕えられるのは、今生限りのチャンスだ」と言っていた。言わば脅しだ。このチャンスを逃したら今後一生出会えません! あなたは損します! 悪徳業者のセールスみたいだった。

 

そして私は当時自覚していなかったが恐怖心から教団の教義を信じ、他者に対しても同じように、神に従うことを押し付けた。今考えると、神の名を利用し、他人をコントロールしようとしていただけだった。ものすごく気持ちが悪い。

「あなたは自由です! 選ぶ権利があります!」と言いながら結局は従うことをよしとするなら、どこが自由だ。自由の意味を履き違えている。無意識に他人をマインドコントロールしようとしていた自分も、あの集団も恐ろしい。

その点を考慮するとやっぱり某新興宗教を脱会して良かったと心底思った。

創作物を見てほしいけど見られたくない

毒親育ちの悪影響もあってか、私には「創作物を見てほしいが、見てほしくない」という何とも厄介な感覚がある。

  • 作者である自分のことを探られたくない
  • 創作物=作者の思想と一括りにされたくない
  • 創作物を盗作されたくない
  • 無断利用されたくない

など様々だ。

閲覧数が増えるとこれらのネガティブな思いが強くなり、作品公開をやめてしまう。今はもうやっていないが、旧Twitterアカウントを開設しては作品ごと削除するのを繰り返していた。

Twitterが主流になる前、学生時代にはpixivで公開していた作品をごっそり削除した。

作品を見てもらう喜びより、苦痛が大きい。

SNSでバズって拡散されたい! 注目を浴びたい! と思える人には到底理解されないだろう。私にも、バズりたい気持ちを全く理解できないのでそこはお互い様だ。特にTikTokで活動している人のメンタルすごいなと尊敬すらしている。TikTokは無断転載が常態化している。

 

実はこのブログにも創作物を載せようかと、甘い誘惑が襲ってきた。

だけど自分の素性を詮索されたくないし、創作物=作者の思想と短絡的に考えられるのも嫌だ。それに私は虐待育ちなので、「こいつは舐めてもいい」と下手をするとやばい人間が寄ってきて盗作されかねない。どこにでもやばい人間はいるが、被害者体質ではエンカウント率が跳ね上がる。やばい人間への対応で絶対に疲弊するのが目に見えている。

それは避けたい。

……という具合でデメリットを書き連ね、なんとか踏み止まった。危ない危ない。

私には、他人に作品公開するのは向いていないようだ。公開して日々悩むより自分だけで楽しみ、癒やされる趣味に留めておいたほうが精神衛生上良いような気がする。

双極性障害の躁期に作った曲も「誰かに聴いてほしい!」と正直ウズウズしている。

我ながら良い曲だ。ゲームBGMに最適、と自画自賛した。

だけど療養中に作品を公開したらメンタル悪化するだろう。ローカル環境で楽しめる感性があって助かった。

一先ず作品公開はせず、双極性障害寛解に近づいたら創作用のアカウントで載せたい。

余談だが、私のように「創作活動は好きだが公開はしたくない」人は

ググると幸せになれるかもしれない。

匿名SNSの「tters(ったーず)」にあるサイト制作系のトピックもおすすめだ。あそこにはマイペースに創作を楽しんでいる人達がいる。

虐待サバイバーの子供に「将来何になりたい?」は酷な話

小学生の時によく思っていたことがある。

「将来何になりたい?」「何の仕事をしたい?」と聞かれても困る。

そもそも子供の時は経験も知識も少ない。世界を知らないし、どんな職業があるのか知らない状況下で「何になりたい?」と夢をもつことを押し付けられても困るだけだ。

最早暴力にすら思えてくる。

あれはいったい何だったのだろうか。

ことに、身近な養育者から虐待を受けている子供時代の私にとっては苦行でしかなかった。将来の夢、などという授業は地獄そのものだった。

 

私の両親は毒親だ。

子供の感情、価値観を認めず、己の良しとしたことしか納得しない生き物だ。子供と意見が食い違えばヒステリックに怒鳴り、執拗に人格を否定し貶める。そうして日常的に子供の自尊心は粉々に破壊されていく。

毒親は、他人が他人であることを理解できない。

自分さえよければそれでいいのだ。

事あるごとに「お前は自己中、我が儘だ」と非難されたが、毒親お得意の特大ブーメラン芸だった。

学校から家に帰ると、暴力的な生き物がいる。子供だった私は周りに頼る大人がおらず(というより助けを求める発想がなかった)、家庭内暴力に耐えるしかなかった。毒親の機嫌を伺い、精神を擦り減らす。一挙手一投足、間違いは許されない。

しかしどんなにこちらが気をつけていても、毒親が気に入らなければ全て無駄になった。

  • いつかこの人に殺されるのではないだろうか?
  • 見捨てられるのではないだろうか?

恐怖で心が締め付けられた。いつも不安で、一人になると泣いてばかりいた。小学生の頃はよく虐めにも遭った。実の両親だけでなく同級生、上級生に繰り返し心を刺された。兄弟間も大して仲は良くなかった。私の日常は酷く殺伐としていた。

 

こんな状況で自分の将来、未来をどうやって描けるだろう? 無理だ。

暴力に耐えるだけで精一杯なのに、将来を考える暇なんてない。できないことを学校側から「課題、宿題」という名目で半強制的にさせられるのだ。やらなければ不真面目、反抗的な子供と教師に烙印を押される。

クソみたいな授業だなと思う。

どの家庭も健全、子供は健やかに育っている。

そんな幻想があるから「将来の夢」などという授業があるのだろう。

まず落ち着いて過ごせる環境があり、子供に選択肢があればそのうちやりたいことを自主的に見つけられると思うが、劣悪な環境にいる子供はそうもいかない。

私はここ数年で、自分が虐待サバイバーであることを自覚できたが、今学校に通っている虐待家庭の子供たちや大人になった虐待サバイバーに伝えたい。

将来の夢をもてなくて当たり前だ、と。

未来を想像できないのは、あなたがおかしいからじゃない。暴力に遭い、考える余力がないからだ、と。

 

そして読む訳ないと思うが念の為。

もし教育機関で働いている方がこの記事を目にしたならお願いです。子供に「将来の夢は?」と聞くのをやめてください。考えられない環境で必死に生きている子供もいます。

家庭内暴力から子供を保護するのは容易ではないです。せめて大人の無理解によって、「できないことをやれ」と子供に押し付けるのをやめてください。

どうか虐待家庭にいる子供の傷を増やさないようにお願いします。

双極性障害で年々創作意欲が減っている

私は子供の頃(4〜5歳)から双極性障害躁鬱病)を患っているが、物心つく前から絵を描くのが好きで、チラシの裏や自由帳によく落書きしていた。

小中高、社会人と年齢を重ねても私の絵描き趣味は続いていた。コピック、水彩、アクリルガッシュ。ペンタブ。アナログ画材でもデジタル画材でも色々描いた。

 

しかし、今や見る影もない。

鬱期もあってか絵を描く気力が全く湧かない。自分でも驚くほど創作意欲がない。やれていることといえば、寝ているか食べているか。ぼーっとYouTubeを観ているかだ。

学生時代はほぼ毎日何かしら創作活動に励んでいた。好きなキャラを描いて、二次創作も一次創作もしていた。小説、人形、ゲームも作った。徹夜も苦にならないほど楽しかった。

 

なのに、どんなに素晴らしい漫画やドラマ、映画、絵に触れても創作意欲が湧かない。

「綺麗だな」「かっこいい」「好きだな」

そう思うだけだ。

作品の消費止まりで、創作活動にまで繋がらないのだ。

病気の影響で頭がぼんやりし、後頭部にもやがかかっているような感覚。感情にストップがかかっている。想像が喚起されない。

私は創作をする時、どっぷりと感情を感じながら作品を作る。キャラクターが悲しんでいれば私もどんよりと落ち込み、憂鬱な気分で描く。泣きたい気持ちになるようなBGMを流せば筆が乗る。

もちろんその逆もある。明るい絵ならノリノリのEDMを流して、ハイになって描く。

そういうことが今はできなくなった。

感情を深く感じられないので、何も描けない。落書きすらできないでいると、それまでできていたことができなくなってショックを受ける。焦燥感が募った。空白が拡がっていくばかりで、人生を無意味に過ごしている気になってくる。

もう描けないのではないか?

そんな自分に対する落胆で虚しくなった。

 

ただ、これを書いている今は、創作活動ができない自分に多少の折り合いはついている。鬱病で創作意欲がなくなった人の体験談をネットで読み、病気で作品作りができないのは仕方ないと思えたからだ。

だけど、創作への未練を完全に捨てたわけではない。

病気が寛解したらまた描きたいし、できるようになりたい。何か作りたい。私は作ること自体が好きだ。

健康な人が自分の趣味が変わり自然と手放せるのとは違い、病気でやむを得ずできない状態になった。好きで趣味を辞めたわけでない。双極性障害という病気によって楽しみを取り上げられたようなものだ。

 

一時は創作意欲をどうにか取り戻せないか? と足掻き、「他の趣味をやるのがいい」「インプットを増やす」などの意見を参考にした。しかし脳の機能が鈍っているため、どれだけ他の趣味を楽しもうとしたところで徒労に終わった。

なので病気と上手く付き合い、寛解に向けて治療していくしかないのだと諦めの境地に至ったのだった。

絵を描けなくなった。小説も書けなくなった。

BGM制作は、鬱期ではない時にかろうじて気晴らしにできる程度。メロディやビートを作るなどの最低限のメモくらいだが。

本当は描けたら嬉しいが、無理を重ねるほどに寛解は遠のく。

私はセルフネグレクト気味でもあるので、できるだけ健康な日常生活を送れるようになることが目標だ。(ちなみに今は夜寝たくなくて昼夜逆転中。)

創作意欲が湧かない自分を受け入れつつ生活していけたらと思う。

双極性障害の躁期の失態。毒親に暴言

私は幼少期から両親にモラルハラスメントを受けて育った。人格否定や嘲笑、ヒステリックに怒鳴る、価値観の押し付け、過干渉、面前DVなど様々な虐待を受けた。

物理的暴力はなかったが毒親の精神的暴力によって心がじわじわと死んでいった。確か4〜5歳の頃には既に鬱の症状が出ていた。

そのため学生時代までは、てっきり自分は鬱病だと思っていたのだ。

しかしいつだったか忘れたが、ネットで見た精神科のサイトで「ああ、私って双極性障害だったんだ」と自覚した。

 

20代後半になった今でも双極性障害だ。ここ数年でやっと自覚し、医者にかかろうと思えたところだ。実家暮らしだが無職のため殆ど収入がなく、まだ行けてはいない。某新興宗教にハマったせいで無駄遣いもした。仕事をしていた頃の貯金は宗教で消えた。

宗教団体を脱会し、出費が増え支払いに追われる日々から開放され、ようやく今年行けそうになった状況だ。

投薬治療がメインになる筈だが私はまだ医者にかかれていない。

 

先日、躁状態で衝動が抑えられず毒親に怒鳴って暴れてしまった。とある話題を私はしたくなかったのだが、しつこく尋ねてくる毒母にブチ切れ、「あなたの親(私から見て祖父母)が嫌いです」と拒絶し、これまで受けてきた虐待について毒母を罵ってしまった。

ブチ切れて発言した件に関して、他の家族は毒母を擁護し「謝ったほうがいい。いくらなんでも言ったら駄目だろ」と私を宥めようとしてきた。それもあり、怒りが止まらなかった。

は? 今まで私にしてきた加害は全部スルーで、私がたった一回ブチ切れて言ったことを責めるのか? 子供の頃にお前らも私のことを散々虐めてきたじゃないか! 私に言ったら駄目なことを延々と言い続けて楽しんできただろ。自分たちの加害はなかったことにして、結局私をスケープゴートにして責めるじゃないか……!

もしも法律や宗教のトラウマがなかったら、毒家族全員殺してるレベルで怒りが止まらなかった。流石に物理的に人を殺すのは躊躇われたので、物に八つ当たりした。自室でティッシュの箱とかハサミを握って、机に叩きつけた。右手も机に殴りつけた。

毒両親の目の前では、台所のローテーブルを引っくり返してしまった。(片付けはした。)

 

その夜、家にはお通夜のような空気が漂っていた。

 

相手が毒親とはいえ、怒鳴ったり物に八つ当たりするのは良くないと思っている。衝動が治まった後、「言わなければよかった」「やらなければよかった」と後悔した。

祖父母嫌い発言も、過去の虐待についても。

暴力を振るったら毒親と同じだ。怒鳴って相手をコントロールしようとするのは毒親が私にやってきたことそのものだ。お通夜のような空気も、毒母が怒鳴って暴れたあの日と同じだ。

 

私は暴力で、他人を支配したいわけではない。

ただNOと言って、自分の境界線を守りたいだけだ。

それが上手くいかない。上手くできない。

毒母に距離を詰められると一気に苦しくなって、拒絶感が強まる。纏わりついてくる感じが気持ち悪くて衝動的に、わっと暴言を吐いてしまう。

NOを言えなかった、NOと言っても無視され続けてきた子供の頃の感覚が蘇って、訳が分からなくなる。

書いていて自覚したが私が暴言を吐いた日、あの瞬間にトラウマがフラッシュバックしていた。毒母にしつこく質問されたことで。

 

暴言はよくない自覚があるので、謝ったほうがいいという罪悪感もある。他人を傷つけて喜ぶような感覚は私にはない。

だけど謝りたくない。毒母の加害は許されて、なぜ私の間違いだけ責められなければならないのか、と理不尽を感じているから。謝ると、毒親に屈したような気がして陰鬱な気分になりそうで嫌だ。

毒親の過干渉も面前DVも未だに続いている。

そんな人たちに、なぜ私が謝らなければいけないのか?

加害者に、なぜ被害者が謝らなければいけない?

そう思ってしまう。私の暴言は良くない。人として謝ったほうがいい。頭では理解できる。だけど理不尽感が強く、謝れないでいる。謝りたくない。

謝罪したらきっとまた、私を弱者と決めつけてモラハラしてきそうで不安だ。散々加害してきておいてまた、何事もなかったかのように生活するのが許せない。

 

私は他人に嫌だと言われたり、自分に非がある場合はきちんと謝罪する。

しかし毒親相手だと復讐心が上回ってできない。普段は謝れるが、私が毒親に境界線を超えられたと感じた時には絶対に謝りたくないと思ってしまう。お前のほうが先に加害してきただろ、と。被害者ぶる毒親が憎い。理不尽な相手に謝るのは屈辱だ。

 

そうはいっても双極性障害の衝動性も相まって、拒絶感バリバリの暴言という表現方法になるのが本当に嫌だ。原因がどうであれ、謝らなければいけないような状況を自作してトラウマの再生産をしてしまうのが嫌だ。

毒親に嫌なことをされ暴れて最後はこちらが謝る、というのがそもそも良くない。暴れて拒絶する以外の、NOを伝える手段が必要だ。

境界線を超えられた時に、暴れないで済む方法を身に着けたい。

毒親には暴れるくらいでないと私の意思&人権が無視されてきたから、その癖が残っている。不安感があり、じっとしていられない。

(「言わないと分からないでしょ」と愚痴る割りには、私が嫌だ、やりたくないと言うと「なんで!? やってよ!」と非難してくる。毒親はいつも言うこととやることが矛盾している。)

アサーティブコミュニケーションを臨床心理士から教わると共に、双極性障害の衝動性を抑えるためには投薬治療も必要だ。

早く通院できる状況になりたい。

このまま無駄遣いせず過ごしてお金を貯め、治療できる環境を整えたい。

 

【追記】

この記事を書き切ってから、言い過ぎた件を毒母には謝罪した。

文章を書いているうちに、

  • 何が嫌だったのか?
  • 何を不安に感じていたのか?

を冷静に見つめ直せたからだ。多少ではあるが、自己理解が深まり自分に共感しセルフケアできた。

 

そもそも、私は他人を傷つけたかったわけではない。嫌なことを嫌だと伝えて、相手に引き下がってほしかっただけだ。

だから毒親といえど、他人を傷つけたことに罪悪感があった。申し訳ない。他人を傷つけてしまう自分も、そのまま何となく有耶無耶にするのも嫌だった。

毒親と同じことを繰り返すのは御免だ。

他人にモラハラして普通に生活なんてできない。メンタルが余計に病む。だから理不尽を感じる気持ちはそのままに、暴言を吐いたという行為について謝罪した。

投薬治療が始まったら、恐らく暴言も減ることも伝えた。

謝罪を受けて私のことを許すかどうかは相手次第だ。

毒母は憮然とした態度だったが、その後割りと普通っぽく話しかけてきた。珍しく気を遣ってくれたのかもしれない。私が相当ブチ切れたので、毒母が内心ビビっていたのかもしれないが。

毒母の敵対心はなさそうだった。

私もできれば他人と敵対したくない。

 

今までされてきたことを思えば、被害者ヅラされてうざいなと復讐心が湧いた。

だけど実家で治療を進めるしか現状は手立てがない。そんな状況下で敵対したままい続けるのはしんどさが限界突破しそうだった。自分で地獄にしては、治るものも治らない。モラハラ対策の専門家Joe氏が提唱する「愛より平和」を意識的に選んだ。

それに私には人を傷つけて喜ぶ感性がないので、モラハラをして自己嫌悪した。暴言を吐いて余計に惨めになった。

ぶち◯してやりたい、と復讐心も湧いたが、実際にそれを実行したら罪悪感で最終的に自分も殺すだろう。なので逆説的にだが、他人を傷つけて一見まともそうに振る舞っているモラハラ体質の人間はメンタルぶっ壊れてるんだなぁと再確認した。

あの生き方は凡人には無理だ。

罪悪感がある以上、物理的に復讐を果たしたとしても私にとっては無意味だろうことも何となく分かってしまった。

虐待の傷を癒やせるよう、セルフケアしていくしかない。

新興宗教脱会後の振り返り。信仰という名の支配

オンライン上で公認心理師臨床心理士に相談ができるサービスがある。

家族からのモラルハラスメント、過去の虐待について相談したいと考えをまとめていた際に、私が所属していた某新興宗教団体を思い出した。

 

もしかすると私は【信仰、神の家族という精神的な繋がり】をダシに宗教団体の信者から支配されていたんじゃないだろうか。知らずのうちにマインドコントロールされていたんじゃないか、と。

当時の信者の動機がどうであれ、善意の押し付けや過干渉、私が抱いたネガティブな気持ちの否定があった。

 

神について何も知らない、分からない入信者はまず先輩信者や創設者の言葉を頼りに教団の教えを学んでいく。人間が生まれた目的だとか、祈りの手順、神の意思をだ。

 

実践する中で「これはどういうことなんだろう?」「神はどのように考えているのか?」「なぜ自分に苦しく、つらい出来事が起こるのか?」など様々な疑問が湧く。

勉強会や直接他の信者と連絡を取ってさらなる教えを請う。

そうしていくうちに、私は神や他人に依存していってしまった。

 

寝込むほど落ち込み、祈りの集会を欠席していると先輩信者から連絡がくることが何度もあった。「最近どうしてる?」と。

当時の私は毒親からの度重なるモラハラのせいで心がめちゃくちゃ疲弊していたので、気にかけてくれる人がいる! と喜びその先輩信者に悩みを相談するようになっていた。

 

だけど今思えば、「困っている」「助けてほしい」「相談に乗ってほしい」とこちらが何も言っていない段階で連絡があったのは不思議に思う。

健全なメンタルの持ち主なら、「なんかこの人距離感おかしくない?」と怪しむタイプの人物かもしれない。

新しい職場で初対面の新人にやたら親切に近づいてくる人を想像してみてほしい。

 

私が「なぜ連絡してくれたんですか?」と質問すると、先輩信者からは決まってこう返ってきた。

「神が、鳥井さんに伝えるように、って」

 

……本当だろうか?

神は、物理的に見ることも感じることもできない。なので真相は私には分からない。確かめる術もない。

だけど当時の私は頼れる人が他に誰もいないと思っていたので、それを信じてしまった。先輩信者の言う神の教えを実践し、死にたくなるほどつらい時は祈った。泣きながら祈った。

 

結果、どうなったか?

何も現実は良くならないし、癒やされなかった。(当たり前だ。祈っているだけでは何も解決しない。)

これだけだと語弊があるので詳しく言うと、祈りによって一時的には心が癒やされることもあった。ストンと感情の波が穏やかになる感覚があった。教団の創設者は「瞑想のようなもの」と言っていたので一定の効果はあったのかもしれない。

 

しかし祈っても祈っても、根源的な生きるつらさは無くならなかった。

それどころか宗教団体に入信する前よりも精神は病んでいった。

死にたいと思う度に祈り、一時的には気持ちが治まる。2〜3週間も経つとまた死にたくなる。それの繰り返しだった。双極性障害複雑性PTSDの症状が出ていたので、本来なら頼るべきは医者や臨床心理士だ。癒やしの方法を聞き齧った素人ではない。

 

次第に薄っすらと疑問が出てくる。

祈っても意味ないのでは?

教団の教えは間違っているのでは? と。

 

私は祈りの無意味さに気づきそうになりつつも「いや、神がこう伝えているのだから私の祈りが足りないのだ」「祈りが間違っているのだ」と自分を疑った。信じたい気持ちが残っていたからだ。

 

だけど疑いが出てくると、最初はありがたいと感じていた先輩信者からの連絡も次第に鬱陶しく感じていった。

放っておいてほしい時に限って連絡がくる。そしてひと通り私の悩みを聞くと、最後は「祈りましょう」と言う。申し訳ないけれど祈りの押し付けに感じ、気持ち悪くなった。

 

その人に境界線を踏み越えられていたのだが、当時は【バウンダリーをお互いに守る】という概念を知らなかったので連絡を断れずにいた。依存心もあり、頼れる人がいなかったから悩みを話してしまった。

もしも私がアサーティブコミュニケーションを身に着けていたなら、穏便にきっぱりと「今は誰とも話したくないから一人にしてほしい」と言えただろうに。残念なことに、毒親家庭では暴力的なコミュニケーション、それから自分が黙ることしか教わってこなかった。

そのため内心嫌だと思っているのに断れず、先輩信者からの過干渉を許してしまった。

 

ある日、「(信じるのが)つらい。集会には出たくない」とネガティブな気持ちを吐き出すと、先輩信者は私の気持ちを否定した。

「しんどいのはあなただけじゃない。みんなつらい。それでも神を信じようとしてる」

 

つらくなったら相談してね、とあれほど言っていた人が「あなたのつらさは大したことじゃない」と否定してきたので面食らった。いきなり梯子を外されたような気持ちになり、一瞬頭が真っ白になった。

助けになるよ、と申し出ておいていざ悩みを話されると突き放すなら、最初からサポートなんかしようとしないでほしい。

 

なんていうか、先輩信者からは「大きな苦しみを乗り越えてこそ信仰がある。どんな苦しみにも意味がある。耐えるべきだ」

そんな我慢をよしとする根性論を感じた。昭和の価値観かよ。

 

仮に「みんなつらい気持ちがあるから、あなたのつらさは全然おかしなことじゃない。一緒に頑張っていこう?」のような寄り添いを感じられたなら、まだあの宗教を信じていたかもしれないが。

感情の全否定をされたショックで、あの時他に何を話していたのか殆ど覚えていない。

 

先にも書いた通り、私が集会を欠席した時に限って先輩信者からは連絡がきた。共依存関係になっていたと思う。

 

何かある度「祈りましょう」「祈っても祈らなくてもいい。どちらでもいい」と言いながら、私が「祈りたくない」と言葉や態度に出すと結局は、祈るのが良いことだと押し付けられた。

「集会の参加は自由です」と言いながら、私が欠席すると「何かあった?」「そろそろ出ましょうよ」と様子伺いをしてきた。

ダブルバインドのように、結局は先輩信者の思い通りにさせられていたんじゃないだろうか。

 

それまでの教団の教えや、先輩信者からの過干渉のせいか、祈りたくない自分がおかしいのでは? と罪悪感があったため「嫌だ!」と感じる自分の感覚が信じられなくなっていた。

「嫌だ」と拒否しようとすると先輩信者にそれはおかしいことだと言外で否定され、違和感を覚えつつも教団の教えに従った。

 

もちろん先輩信者には善意もあっただろうが、実際に私がされたことはモラルハラスメントに当てはまるのでは? と疑わずにはいられない。

信じようとすればするほど自我が破壊されるような感覚を味わったので。

 

幸い、疑いが確信に変わってからは、教団の人間とは今後二度と関わらないと決め、無事脱会できた。無言でそのままフェードアウトしても良かったが、精神的に離れ断ち切る目的で脱会報告はした。報告後の、創設者の返事がクソだったので離れて正解だと思った。(思いっ切り身バレするので内容は伏せますが。)

数年で新興宗教を抜け出せたのでよかった。いやよくないけど。ハマった時間とお金が無駄〜。

毒親からの自立、メンタルケアを優先するが、余裕が出てきたらゆくゆくは宗教団体に所属していた頃の相談もしたい。もちろん素人ではなく、専門家にだ。