毒親育ちの解毒中ブログ

毒親育ちがセルフケア目的で始めたブログ。毒親の洗脳、陰謀論、宗教やスピから脱却しました。

生まれた目的とか使命とかどうでもいい。なくても良し

精神的に虐待してくる両親の元で育ったからこそ思う。

自分の生きる意味とか、使命とか、どうでもいい。そんなもの分からなくても、なくったって楽しく幸せに生きられる。意味なんか自分で決めればそれでいいじゃないか。

今でこそ生きる意味、目的への興味が薄れたが私は4〜5歳の頃から無気力で、自分がなぜ生きているのか分からなかった。キリスト教信者の両親に「何で生まれてきたんだろう?」と聞いてみたこともあったが、知性が低い毒親がそんな哲学的な問いに答えられる筈もなく。

私の疑問はそこで霧散した。

今思えば、家庭内のモラハラが常態化して生きた心地がしないから「なぜ自分は生きているのか?」と意味を求めたくなったのだろう。

毎日毎日、

  • 「あんたってダメな子ね」
  • 「頭が悪い。学習能力ない」
  • 「鈍臭いわね」
  • 「赤ちゃんなの?」
  • 「あー、何やってるの!? 苛つくわね」
  • 「あんたのせいで!!」

こうも人格否定されては、誰だって生まれてきたことを後悔すると思う。死にたくなって当然だ。自分の存在自体を身近な大人に全否定され続けているのだから。

家庭内暴力がない平和な環境で育った人には到底理解されないだろうが、これらは誇張などではなく全て私が毒母から言われた言葉だ。

子供を馬鹿にして見下し、優越感を保ちたがるのが毒親である。同じ人間とは思えないほど性格が悪く、頭も悪い。頭が悪いだけならまだしも、そこに性格の悪さが加わると危険度が跳ね上がる。逃げ場のない子供にとっては脅威だ。

運悪く、酷いモラハラ人間が養育者だったので私は精神を病んだ。

 

役に立たなければ存在価値がない。私は死んだほうがいいんだ。いないほうがいいんだ。

毒親から理不尽に責められる度そう思い詰め、ひとり声を圧し殺して泣くしかなかった。(大声で泣くと毒親からの罵倒が激しくなる為。)

そうして大人になってからも死にたい気持ちは消えず、新興宗教に救いを求めてしまった。私個人が感じたことだが、その宗教団体はカルト化していたと思う。教会主催のイベントに初めて参加した日に、「なんか気持ち悪い。なんだこの人たちは」と内心ギョッとした。確証はないが感覚的なものだ。

 

しかし毒親の虐待で思考力が衰えていた私は、新興宗教団体が提示する【本当の生きる目的】【神様からの使命】にまんまと惹かれてしまった。最初の違和感を「私が知らない世界のことだから気持ち悪いと感じるのかもしれない」と思い直した。虐待育ちによくある好意的解釈だ。

――何でもいいから、誰か私を助けて。ラクになりたい。安心感がほしい――。

人格否定をされ疲弊していた私の心の隙間に新興宗教が入り込んだ。

 

だが、宗教に救いを求めても【虐待親と同居している】【精神的に支配されて気力も体力も奪われすぐに逃げられない】。これらの事実は何も変らず、私にとって宗教は無意味だった。

新興宗教団体の言うお祈りだとかワークだとか。使命を知るとか。全部対処療法でしかない。まず改善すべきは、劣悪な生活環境だ。暴力に支配されていた私の精神状態だ。

それにも関わらず、熱烈な信者は私が死にたくなるほど病んでいると「祈りましょう!」と馬鹿みたいに繰り返した。祈るだけで精神状態や生活環境が良くなるならそもそもこんなに病んでない。

現実的な対処法が間違っていることに当時の私も、熱狂的信者も、教祖すら誰も分からなかったのだ。あれほど「神様が真理を伝えてきてる!」「つらい出来事にも意味はある」「神様からの使命を果たせる時がきた」「神様と共に生きる時代」と言っていたのに。人間一人救えない神って何だよ?? と途中でアホらしくなり新興宗教団体からの洗脳は解けた。

 

脱会後、自分の家庭環境の悪さが原因なのでは? と思い至り、モラルハラスメントや虐待による悪影響について調べた。

そうすると私の考え通り、やはり精神的暴力によって「死にたい。消えたい」と思うようになったのだな、と自覚できた。どんなに正常な精神の持ち主でも、モラハラを受け続けると精神を病むのは自然な成り行きなのだ。

ようやく真の原因に出会え、私は心の底から安堵した。

まさか神様を信仰している両親が虐待していたなんて。果たして幼少期に「自分は酷い虐待を受けているんだ」と自覚できる子供はどれだけいるだろうか? 仮に自覚したとして血のつながった実の親から虐待されている事実を子供が受け入れられるだろうか?

 

少なくとも私の経験から言えるのは、虐待の傷は宗教では救えない。救われなかった。暴力を奮う人間が側に居続けるなら、祈ったところでどうにもならない。神の使命に目覚めたからといって身近なモラハラがなくなる訳ではない。そこは履き違えてはいけないと思う。祈れば精神的に楽になることはあっても現実的な解決に繋がるかはまた別だ。何でもかんでも祈れば救われるというのはただの根性論だ。

やたら人生の目的や意味を求めたくなったら、自分が今劣悪な環境にいるのではないか? と可能性を考えることも時には必要だろう。